取得に莫大な費用と期間が必要な医薬品の「物質特許」は製薬企業の宝です
新薬の開発には、予期せぬ副作用の発現、既存薬に及ばない効果などの不確定要素が多くあるため、莫大な予算と時間が必要です。そのため、晴れて新薬の開発に辿り着いた開発者の権利(知的財産権)を守るため、特許が認められています。
医薬品の特許には、新しい化学構造の物質が医薬品に使用できることを発見した際に与えられる「物質特許」、既存の医薬品の新しい製造方法を発見した際に与えられる「製法特許」、錠剤からカプセル剤など既存の医薬品を新しい製剤によって処方すると有効であることを発見した際に与えられる「製剤特許」、既存医薬品の新しい効能や効果を発見した際に与えられる「用途特許」の4種類が存在します。
この4つのなかで、製薬企業にとって特に重要で、価値が高いのは物質特許です。しかし、物質特許を取得するためには大きな費用と時間が必要となるため、上記のそれ以外の特許などで自社の知的財産を増やすのです。
現在の特許法では、取得した特許権の存続期間を出願から20年と定めています。通常、治験を行う前の段階で特許の出願を行うので、その後の開発・審査に10〜15年ほどかかることを差し引けば、製薬会社が実際に新薬を独占販売できる期間は5〜10年ほどに過ぎないことになります。
しかし、新薬の開発・審査には安全性の確保などのため相当な時間を割かなくてはならない状況を配慮して、国は、製薬会社が申請すれば、「特許発明の実施をすることができない期間」として5年を上限に特許の延長を認めています。
新薬の物質特許が切れた後、通常、後発医薬品メーカーは、新薬と同じ有効成分で効能・効果、用法・用量が同一で新薬に比べて低価格な医薬品、いわゆる「ジェネリック医薬品」を発売します(バイオ医薬品の後続品はバイオシミラー(BS)といいます。
ただし、物質特許の期間が切れても、製法・製剤・用途などの特許が残っている場合には、異なる製法・製剤・用途で製造販売しなくてはなりません。そのため、先発医薬品メーカーは利益を守るため、特許を何段階に分けて取得し、自社の新薬の独占販売期間を延ばすなどの戦略をとるようなこともあります。
近年、特許が切れた大型製品の多くは、先発医薬品メーカーから特許の許諾を得た他の製薬企業がAG(オーソライズド・ジェネリック)として販売する傾向にあります。AGは先発品と有効成分、原薬、添加物、製法まで同一なのがアピールポイント。特許が切れる新薬のメーカーは、従来のジェネリック医薬品に市場を奪われるのを座視するくらいなら、特許の許諾でロイヤリティ収入を得る道を選ぶケースが増えています。
医薬品に関する特許権侵害の手続き:「特許権侵害訴訟」と「特許無効審判」
ジェネリック医薬品やバイオシミラー(BS:バイオ後続品)を市場へ安定的に供給するため、先発医薬品に係る特許権(製剤特許、製造特許など)の問題は、これらの後発品が薬価収載(新しく承認された薬が価格の一覧表に掲載され、保険適用となること)となる前の段階で、先発医薬品メーカーとジェネリック医薬品メーカー等で事前調整をおこなって可能な限り解決しておくことが厚生労働省によって求められています。
しかし、当事者同士の事前協議は形式的になりがちです。その医薬品が特許権を侵害するか否か、あるいは先発医薬品の特許権そのものが疑わしいなど解釈の余地が存在するため、現実には裁判の場で決着をつけるケースも少なくないのです。
医薬品に関する特許権侵害の手続きには、「特許権侵害訴訟」と「特許無効審判」の二つがあります。「特許権侵害訴訟」とは、先発医薬品メーカーなどの特許権所有者が東京/大阪地方裁判所にジェネリック医薬品メーカー等による特許権侵害の差し止めや損害賠償を求める民事訴訟のことです。
一方「特許無効審判」とは、ジェネリック医薬品メーカー等が先発医薬品メーカーなどの特許の無効化を求めて特許庁に対して行う行政手続きのことです。いずれの手続きも控訴(出訴)→知的財産高等裁判所→最高裁まで争われる可能性があります。
既に製造販売している自社の医薬品に対して特許権侵害訴訟を提起された企業は、判決が確定するまでの期間、自社製品の製造中止、回収などのリスクを抱えた状態で製品を市場に供給することになります。裁判で敗訴が確定した場合は、製品の回収は避けられず、医療現場の医師や薬剤師、そして患者さんに大きな混乱を招きかねません。
一方の特許無効審判は、一刻も早く市場に参入することでシェア拡大につなげたいジェネリック医薬品メーカー等の思惑もあり、自社製品の承認申請の手続きよりも前に請求されるのが一般的です。承認申請の手続きは時間を要するため、先発品の特許無効が認められてから手続きを開始したのでは機会損失が生じてしまい、せっかくの市場の参入機会が遅れることになります。。
医薬品の特許権に係る係争の多くは前述の「特許権侵害訴訟」となっており、先発医薬品の特許(物質特許、製剤特許、製法特許など)に関して、ジェネリック医薬品の特許権侵害を訴え、その製造販売等の差し止め請求や仮処分申し立てを行っています。オキサロール軟膏の「製法特許」について開発製造元の中外製薬がジェネリック医薬品メーカー3社を特許権侵害で訴えた裁判のように、損害賠償請求が認められたケースもあります。
近年の傾向として、バイオ医薬品に係る訴訟が見られるようになったことが挙げられます。2017年には、国内初となるバイオシミラーに対する訴訟が提訴されました。ハーセプチン(抗がん剤)の用法・用量特許をバイオシミラーのトラスツズマブBSが侵害しているという主張です。
ハーセプチン等の抗がん剤は、効能・効果ごとに併用療法が複数存在しますが、用法・用量特許では権利範囲に含まれる療法だけが特許権侵害に該当します。用法・用量特許は、バイオシミラーに承認される併用療法の数を制限するため、後続品メーカーは特許侵害の可能性がある部分を避け、先行品の一部効能だけで承認申請を行ういわゆる「虫食い申請」を余儀なくされます。
キイトルーダ(一般名:ペムブロリズマブ)、ヘムライブラ(一般名:エミシズマブ)、プラルエント(アリクロマブ)に対する訴訟は、先発バイオ医薬品メーカーが他の先発バイオ医薬品メーカーを特許権侵害で訴えたケースです。バイオ医薬品の特許は、抗体の構造(アミノ酸配列や遺伝子配列)を特定することなく、抗体の機能や作用機序(体に作用する仕組み)だけで特徴づけられた発明に特許権が認められることがありますが、その権利範囲は、他社の開発する同一作用機序の類似新薬まで及びます。
上記3剤のなかでもサノフィ社のバイオ医薬品プラルエントは、アムジェン社のレパーサの特許権を侵害していると判決が下った結果、2020年5月に製造販売停止となり、新薬が特許権侵害により差し止められた国内初の事例となりました。